ニューヨークのブックオフで2ドルでゲットした、日本財団会長の笹川陽平さんの本を読んでたら、小野寺さんの名前が出てきて、なんとな~く調べてみた。
すごい。本当にすごい。
(最後に動画あります)
簡単に説明。
1944年の12月フィリピンのルパング島に派兵される。
アメリカ軍が攻めてきて、ルパング島の日本軍はほぼ全滅。
1945年8月、終戦(ポツダム宣言)。
しかし、生き残った小野田さん達4人は、敗戦を知らずに、山に潜み、ひたすらゲリラ戦を展開する。 一人の部下は50年に投降、もう一人は54年に射殺される。
そして72年、最後の一人の部下も射殺される。
この時点で敗戦から27年!(自分いま27歳!)
その後もひとりでゲリラ戦を展開し続けた。一人でだよ、一人で。
この間に日本政府や小野田さん家族なども現地に訪れ、捜索活動をしている。
しかし、ゲリラ活動・諜報活動の精鋭を養成する、陸軍中野学校を出ている小野田さんは、直属の上司からの武装解除の命令が無い限りは一人になっても戦い続けろと言う教えを、忠実に守り続けたため、その捜索活動なども自分をおびき出す作戦だと考え、身を隠し続けた。
ある日、ジャングルの中で、一人の青年を発見。
銃を向けて脅すと、彼は日本人だった。この青年は、テレビなどで中継される小野寺さんの捜索活動を見て、触発されてルパング島に、小野田さんを探しにきたワンダーボーイだった。
小野寺さんは「直属の上官からの命令があれば、この任務を離れる」と伝え、青年は小野田さんの写真を撮り帰国。
そして、1974年3月9日(敗戦から29年)当時の上官をフィリピンに送り、任務完了を伝える。
フィリピン軍の基地に到着すると、軍刀をフィリピン軍の最高司令官に渡し、降状を表明した。この時、小野田さんは処刑されると覚悟でいた。
しかし、司令官は「軍隊における忠誠の見本」と評し、軍刀をすぐに返す。
この時、51歳だった小野田さんは、自分の命を60までと決めて、60歳になったらフィリピン軍のレーダー基地に突入攻撃をし、果てる覚悟だったとのこと。
30年間のジャングル暮らしの中で、敵にばれないように暦は頭の中で覚えてたらしいけど、たった6日しかずれていなかった。
そして帰国後は、まったく変わった日本を目の当たりにし、若者の脆弱化を教育するために日本財団協力のもと、小野田塾というのを運営し、日本のために頑張っているそうです。
つぎはぎの軍服、ピシっと背筋を伸ばし、敬礼する姿がとても印象的。
そして保護された当時の獣のような強く鋭い目と、現在の本当に優しそうな目の差が印象的です。
母との再会が感動した。
忠誠心。ラストサムライ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%94%B0%E5%AF%9B%E9%83%8E
小野田さんと同じく、グアム島で28年で生き続けた横井庄一さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%BA%84%E4%B8%80
この方の帰国時のインタビューは有名ですね。
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